「信頼」

今朝もらったみことばで、
「私の口を守ってください」
という祈りの必要を示された。

いや、その必要はすでにあいつが指摘してくれた時に
心底思い知ったんだけど、
その忠告が人間的な思いや判断から生まれたものではなく
本当に主からのものであったことが
あのみことばによって確かにされたんだ。

もちろん、あいつに言われた時点で
ほんとに神様があいつを通して語られたんだ、
って思ってはいたんだけど、
それがさらに確かにされた。

 

また、「出来事→みことばで確かに」
のパターンだ!!

 

そして、今夜の学生祈祷会のメッセージで、
ペテロの再召命のところが語られた。

 

イエス様はペテロに「私の羊を飼いなさい」って言ったとき、
その数日前には自分を裏切って3度も知らないって言った人間に、
自分がいのちをかけて救った人たちの魂をゆだねる宣言をしたんだ。

普通、そんな重要な使命を、
信頼できる人間ならわかるけど、
よりによって自分を裏切ったばかりの人間に託すか?!

でもイエス様がそうしたのは、
そんなことの後でもペテロを「信じてた」からなんだって。

そして、最初に受けた「人間をとる漁師にしてあげよう」という
召命のみことばはペテロの失敗によって地に落ちてしまったのに、
今回のこの召命には死ぬまで従い通せたペテロ、
何が違ったのか?

それは、このイエス様の、愛と信頼があったからだ、って。

 

信頼に値しないような人間が、
自分でもそれを痛いほどわかってる人間が、
それでも信頼され続ける事によって、
その信頼に相応しい人間になっていくんだ、って。

 

それを聞いた時、また衝撃が走った。

なぜなら、その「信頼」というキーワードは、
夕食前あいつと話した時に
あいつが言ってくれた大事な言葉だったから。

そう、その信頼がなかったら、おれはもう潰れてた。

一生、失敗を恐れて、何もできない人間になってたかもしれない。

でもあいつが「あんたの弱さはわかってるけど、
それを正直に認めて、どうにか変わろうとしてること、
理解しようとしてることもわかってるから、
そこに信頼してる」って言ってくれたから、
おれは立ち直れた。立ち上がれた。

 

イエス様は、あいつが見る以上に、
おれのダメなとこぜーーーんぶ知ってる。

それでもなお、おれを信頼して、
「わたしの羊を飼ってくれないか?」
って言ってくれてるんだ。

しかもそれが、
「わたしを愛するか?」
ってことなんだ。

 

愛してもいない人間に、
「わたしを愛するか?」なんて聞かない。

その質問は、
「わたしはこんなにもあなたを愛している!
 あなたはどうなんだ? 愛してくれないか?」
って意味なんだ。

 

このイエス様の愛と信頼なしには
おれたちは何もできない。

 

でも、そういうことってなかなか具体性がなくて
頭でわかってても、体験的に理解してたわけじゃなかったんだよね。

それが、今回のあいつとの和解、
その中で言われた「信頼」ということばを通して、
おれの体にリアルな体験として刻み込まれた。

あいつを通して、神様は何十にも語ってくださったんだ。

今回も、出来事・体験→みことば の順番で!!

 

ここんとこ本当に、みことばが全部つながってる!

本当に感謝だ!

毎日が楽しみだ!

神様、ありがとう!!

明日もよろしくお願いしますっっっ