他愛もないディボーション。

今読んでる本、

「なぜ、この人と話をすると楽になるのか」

 

コミュニケーションの訓練をイチからやり直さなきゃって思ってたら
新聞の広告欄で見かけて気になって買った本。

人は会話そのものを目的として会話する。

だから、他愛もない話というのは
私たちが思っている以上に大事なものなんだと。

 

おれは、「ミのない話」があまり好きでないと思ってた。

内容がないような話を見下げてた。

でも、そういう会話も、心の栄養として大事なものだったんだ。

 

ひるがえって、神様とのコミュニケーションである
ディボーションはどうだろう。

他愛もない祈りとか、他愛もない聖書の読み方みたいな。

祈りだったら、さっきトイレで切れ痔になったんだけど
(ちなみにおれにとっては日常茶飯事である)、
なんか「イエス様も切れ痔になったんですか?」ってふと祈った。

祈ったって言うと違和感あるけど、
要するに心の中で神様に喋りかけたんだから、これも祈りだよね。

 

あと、聖書読んでるとき、
そんな重要な指針を得るとかじゃなくて、
なんかストーリーとか言い回しが妙にツボにはまっちゃったりして
「ウケる!!」ってなる。

そういうのって不敬虔な読み方って言われそうだけど、
他愛もない話しかけ方があるなら、
受け取り方も、マジメマジメばかりじゃなくて、
ときにそういうユル~い部分があったっていいと思う。

だって、神様が人をそういうユーモアも含めて造ってくださったんだから、
そこを排除した形で神様と関わるっていうのは
むしろ不自然なんじゃないか?!
って思った。

 

「私たちにすべての物を豊かに与えて

『楽しませてくださる』」神様だからね!!