「ディボーションのすすめ」から示されたこと②

ガイダンスの後、実際にやってみようの時間。

今回の箇所はヨハネ13:1-11だった。

有名な洗足のところ。
新しい発見があるだろうか?
ちょっと身構えた。

有名な箇所って、ついつい、
「あー知ってる知ってる、何度も読んだから」
って無意識に思っちゃって、
じっくり読めないことが多いから、
「何も心に迫ってこなかったらどうしよう」
って、恐れてたんだ。

 でも、おれの目は、読み始めてすぐ7節に吸い寄せられた。
イエスは答えて言われた。
「わたしがしていることは、
 今はあなたにはわからないが、
 あとでわかるようになります。」

いちおう11節まで一旦読んだけど、
ここを何度も読みながら思いを巡らした。

・「主がしていることがわからない」ということ:
イエス様がペテロにおっしゃったのは、
「わたしがしていることの意味」ってことだと思うけど、
おれは今「そもそも主が今何をしているのか」自体「わからない」
状態だと思った。
ペテロは少なくともこの時点で、
なんで師匠であるイエス様が弟子である自分の足なんか
洗って下さるのかは理解できなかったけど、
現実にイエス様が自分の足を洗っているのは見てわかった。
でもおれは今、神様が自分に対してどんなことをしているのか
ちっとも見えていない。霊の目はふさがり、真っ暗で、
何も見えていない。
たまに友達といい交わり、分かち合いが出来た時に、
ポッ、ポッ、と、部分的にスポットライトが当たったようにして
まばらに見える場所があるけど、
それらが全然繋がってなくて、
神様の示そうとしてる「道」っていう感じには
到底見えてない感じ。

・でも、されるがままにされる、ってことが大事なのかな。とも思った。
「洗わないでください」とか、「足以外も洗ってください」みたいな、
余計なことを言う必要はないんだ。
おれが何か頼む前に、必要なことは主の方から先にしてくださるんだ。

・でもただ、イエス様と一緒に食卓についてなきゃ、
それはしてもらえないんだ。
その食卓につく、イエス様と一緒に食事するってことが、ディボーションなんだ。
今までのディボーションは、形の上では、
「聖書を読んで、祈る」っていうのをしてた。
でも、読んで示されたことに対する応答の祈りとかが
ちっとも出来てなかったと思う。
読むだけ読んで、それに対してほとんどなんとも思わず、
したとしても「応答」より「解釈」ばかりしてた。
そして、続く祈りは、全然それに脈絡なくて、
自分の言いたいことばっかり一方的にしゃべってる感じだった。
喩えて言うなら、神様が野球ボール投げてくれたのに、
キャッチもそこそこにサッカーボール蹴り返してた、みたいな。
そんなん、会話じゃない。
そんなんで、「祈りに対する応答がない~」なんて、
言う権利なかったよね・・・
ほんと神様に失礼なことしてきた。
これからは、もっと生き生きしたディボーションがしたいよ

ていうか、それができなかったら絶対、
この先伝道者になんかなれない。

神様どうか、こんなおれでも続けずにはいられないほどに、
ディボーションの祝福をたんまりと味わわせてください。
それなしには一日を始められないほどに、
ディボーションの醍醐味をもっともっと教えてください。


そうそうそれと、
この箇所をある先輩と分かち合ったら、
最初にひとりで黙想した時には浅かった思いめぐらしが
2倍、3倍に深められた!
それも、喋りながら自分で気づくの。
「えっおれさっきそこまでわかってなかった!」って。
相手はおれの苦手だった、最近まで恨んでた人なのに、
こんないい分かち合いができるなんて。
もう、この人がいとしく思える程に。
もちろんもっと仲いい他の友達となら
もっともっと盛り上がるのかもしれないけど、
もし組み合わせがそいつだったら、
この先輩と分かち合おうとはしなかっただろう。
きっと神様が、この人と分かち合いなさいって、
組み合わせまで選んでくれて、
ほとんど交わりができなくなる直前のこの時期に、
この人との関係をもっと良くしてあげよう!
って計画してくださったんだ。
仲のいい、分かちあいやすい友達には
これからいつだって話せるから。

これがほんとにいい体験だった!
神様ありがとうっっ!!